善三擬態 8月8日
坂本善三美術館の奥の間にずっとあるチェックの絵。去年は「うしろ手の顔」という緑粘土の回に背景として登場したりしていました。
坂本善三の代表作です。
チェックの絵と言うと、必ず「チェックって言うな!」と山下さんが怒るのがおもしろくて、わたしは「格子の絵」とは呼ばずにいます。
この絵は、坂本善三が神社の格子の内側から、外を眺めている絵だそうです。それなら「作品82」なんてタイトルじゃなくて「格子」でも「光」でも、タイトルちゃんとつければいいのに! 山下さんに「それでお客さんに伝わるの?」とか赤ペン入れられちゃいますよ! と思ったのですが、山下さんにそう訴えると「わかる人にだけわかればいいと思ったんじゃない? ていうかわかってもらえなくてもよかったんじゃない?」ってなんだよそれ。納得いきません。
しまうまの縞みたいに、善三のチェックの絵に擬態するというアイディアは今年の道場が始まる前に浮かんでいたものでしたが、昨日、ワークショップを終えた中学生からも「絵の中に紛れる」という案が出て、背中を押されるように、この日の実行になりました。
ちょうど新潟から絵の描ける友人も到着。もちろんわたしは自分で描かずに描いてもらう気でいます。
それでは、友人、和久井さんに、今回チェックを描いてみての感想を伺います。
どうぞ。
「チェックじゃないよ、格子だよ。黒と白の絵と思って、最初に黒い絵の具を出しました。でも結局、最後まで黒は使わなかった。光の中で黒に見える色が使われているのだと思いました。あと、くるみちゃんの背中の曲線に筆が持っていかれて、直線を引くのに苦労しました。」
チェックの模様を入れるにあたって、まずは位置決めです。
写真にした時にちょうどうまくおさまるポイントを「あと1cm左、半歩下がって」というふうに細かく細かく調整します。
目の位置によってチェックの目が変わってしまうので、カメラを三脚で固定し、和久井さんにはファインダーから覗いた視点で常に確認しながら描いてもらいます。
絵を見て、描いて、カメラから見て、描いて、わたし含む全体像を確認して、描いて、の繰り返しです。わたしはずっと後ろを向いているのでその描いている過程はわからないのですが、和久井さんの体温、近づいたり離れたりする足音、筆先の感触から、なんとなく和久井さんの動きを読むことができます。
昨日のワークショップに引き続き、今日も運動ゼロ企画なので、なるべく腹に力をこめて、背伸びをするような心意気ですっくと立ちました。カロリー消費、カロリー消費と思って。そしたら、足裏がじんわり痺れてきて、ヘモグロビンが自分からどんどん溶け出していっているような悪寒がしました。立ちっぱなしの朝礼で倒れてしまった自分の小学生時代を思い出して冷や汗が出てきたので、汗で絵肌が壊れると思って休憩しました。
お茶補給の儀
完成。
和久井さんのキャンバスになっている間、わたしはずーっと、目の前の「作品82」を見ていました。
格子の隙間からわっと光が溢れてきて、「ここ」から「むこう」に広がる世界のまばゆさに目がくらむようでした。
背面の絵が完成してから、わたしは自分の正面に、格子の外側に存在するであろうあちらの世界を描きました。
光が走る、雨上がりの平野です。
久しぶりの美術っぽい企画でした。
和久井さんありがとうございました!
---------本日の学芸員赤ペン---------------------------------------------------
善三先生の晩年の代表作「作品82」。
障子の格子やお宮の格子戸から発想して描かれたといわれているこの作品は、通称「格子」と呼ばれていて、善三美術館の築140年を越えた古民家の本館の一番奥で私たちを迎えてくれます。
この作品のファンは多く、「ああ、久しぶりに会えた」と長時間正座でご覧になったとある評論家の方の姿を良く覚えています。先日来られた方は、足を痛めて正座ができず、この絵に近づき「立って見て申し訳ない」とおっしゃいました。
私も善三先生の作品の中で、この絵が一番好きかも知れません。この作品は、画面の奥から光が溢れています。光が描かれているというよりも、光そのものが画面からにじみ出ている(と私は感じる)のです。その光を眼にするとどうしても「希望」という言葉を使わずにはいられない。世界中に数多くの画家がいて星の数ほどの作品がある中で、画面から光があふれ出し、芸術の前に頭を垂れたくなるような、何だか敬虔な気持ちにさせる作品には、ごくまれにしか出会えません。
恐れ知らずにも、そんな「作品82」に「なろう」というのが今日の作品「善三擬態」。
まずは、事前に赤ペンチェックしたい点その①
「チェック」の絵ではありません。チェックというのは「格子柄」のことで、この作品は上述のとおり、当然格子の模様を描いた訳ではありません。
もう一つ、事前に赤ペンチェックしたい点その②
タイトルも、「わかる人だけ分かればいいと思ってたんじゃない?」なんて学芸員として仕事を捨てたようなセリフ、私言ってません。見る人の想像を限定しないように、敢えて「1982年に描いた作品」という意味の記号のようなタイトルをつけたのです。わかる人にだけわかるようにではなく、むしろみんなの心の中にあるものを引っ張り出してほしくてつけられたタイトルだと思います。
・・・と、まあ、これらの赤ペンは、作品に対してというより反省日記に対してですね。
さて、赤ペンの事前チェックが終わったところで、気を取り直して本題へ。
今日のくるみちゃんの作品は、そんな善三先生の代表作に擬態するというもの。つまり、体に絵を描いて、絵の中に紛れ込んでしまうという作品です。
「作品82」は、格子のグリッドが描かれているので、完全に絵に紛れ込むためには、くるみちゃんが立つ位置をきっちり決めておかなければならないと同時に、見る人の視点もある一点に決め、しかも、そこからカメラアイで見なくてはなりません。見る人と対象の位置関係を厳密に限定し、かつ片目を閉じて見ないと立ち現れて来ない、小さな奇跡のような現象なのです。
そのためにまず必要なのは、作品82の完全な模写を、くるみちゃんの背中に厳密な縮尺で描く技量です。それは新潟からはるばる見に来てくれたくるみちゃんの友人和久井さんの手に委ねられることに。和久井さんは、こともなげにそれをやってのけてくれました。和久井さんが模写しているところを見ると、使っている絵の具は赤と青と黄色。本人も言っているように、黒を全く使っていない。私はこの作品を解説する時に、「白と黒の濃淡で描かれている」と安易に口にしていたのを今後やめようと思いました。確かに、よく見ると黒ではない。ピンクもオレンジも朱色も「赤」と分類する文化があるように、いかに自分が大雑把に見ていたかということがわかりました。模写は絵を描く人の勉強というイメージだけど、鑑賞の目も大きく見開かせてくれます。
いざ、背中に格子を背負ったくるみちゃんが「作品82」の前に立ちました。その姿は完全に絵に溶け込み、まるで絵が人型に膨らんだかのような、あるいは透明な人が絵の前に立っているかのような、異次元の世界にいるようでした。もちろん、何度も繰り返しているように、これは肉眼で見てもそうはならない。ある特定の場所に立ってカメラのレンズを通した時だけに現れるのです。
そうなると、今くるみちゃんが立っているところは、本当に異次元なんじゃないだろうか。幻想の世界と現実の世界の境目に立っているのではないだろうか。そんな境目に立っていたからこそ、格子の外側にある世界が見えたのではないだろうか。特別な場所で特別な条件が重なったときにだけ見える幻想がそこに立ち現れたのではないだろうか。そんな気持ちになりました。
昨年の制作道場で『「いないけど、いる」ような作家の淡い存在感が漂う作品を求む』という企画リクエストがお客様から寄せられていましたが、この作品はかなりそれを達しているのではないでしょうか。
今日の作品をご覧になって、善三先生の代表作でこんなことしていいの?と思われた方もおられるかもしれません。しかし私はむしろこの「善三擬態」には、善三作品に対するリスペクトを強く感じました。格子であって現実の格子ではなく、現実の光ではない光が射すこの作品の本質を眼に見える形にした一つの方法であると思うし、何よりそれによって「作品82」自体に新しい眼を注ぐことができるようになったと思います。
大好きな「作品82」についての作品だったので、赤ペンもつい長くなってしまいました。
坂本善三美術館 学芸員 山下弘子