駆け込ん寺 8月10日

日記一旦アップしましたが大幅に書き足しました。

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山下さんが家族旅行とやらで美術館をお休みされる8月10日、福岡県立美術館学芸員、竹口浩司さんがゲスト赤ペンとしてお越しになることに。

竹口さんは、前回の制作道場の最終日にいらしてくださった方なのですが、それ以外に面識はありません。

どうするのどうするの、その日何やるの? 

いつもの道場と同じではいけない、竹口さんとじゃなきゃできないこと、とびきりおもしろいこと、最高の、唯一無二の一日にしなきゃ、と、具体的なアイディアはからっぽのくせして志の高さだけは天井知らずというアンバランスな状態で、竹口さんの到着される8月9日がやってきてしまいました。

プラン白紙のまま、時間がどんどん過ぎていきます。

台風作品の合間はもちろん企画会議です。

話は一向に進みません。とにかく竹口さんと話してみないことには何も出ないよね、と何度言ったかわからないため息が事務室に充満していました。

 

閉館後、時は18時半。

ついに竹口さんとあいまみえました。

企画がなーんにも決まっていないことを打ち明けて、制作道場合宿を強行します。

会議は深夜まで続きました。

 

竹口さんの生い立ちを根掘り葉掘り聞いて、アイディアが浮かぶのを待ってみましたが、ヒットはおろか凡打も出ない。

ゲスト赤ペンの登場によって、山下赤ペンと続けてきたマンネリの緩和をもくろむのなら、いっそ去年の企画をもっかいやってみたらどうかな!! 一年前の今日は何やったっんだっけな! やけになって調べてみると、「他力本願寺」。

うーん…。山下評では不評の回でした。他人に丸投げするな、と。作家が自分の力で考えろ、と。

困ったな、困ったな、を連呼しているうちに、いつの間にか、今日の企画は「駆け込み寺」で決まりじゃない? という気運が高まりました。

未完のアイディアを握りしめて師匠の元に駆け込んで、良き方向へ導いていただく。

昨年の山下さんの苦言を完全に無視することになってしまいますが、自問他答が2014年の制作道場テーマにもなっているわけだし、いいじゃん、30日間自問他答、濃縮版がこの一日ってことでいいじゃん!! と、考えれば考えるほど、これしかないという気持ちになってきました。 

「他力本願寺」から進化している点は、初めから「わたしは企画に困っている」と高らかに宣言しているところです。むしろいさぎ良いですよ! 

わたしの熱弁にあれよあれよとみんなが説得されていく中、唯一、それほんまにおもしろいん? と及び腰だったのが竹口さんその人だったのですが、みんなで気づかないふりした。

 

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翌朝以降の我々の奮闘の模様は、8月10日のツイッターをご参照ください。

https://twitter.com/zenzo_sakamoto

充実の実況です。

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ツイッターに説明をまかせるという手法が不評だったので自分の言葉で書きます。

 

朝は「駆け込ん寺」のイメージを具現化すべく、まず道着(スタッフ私物)を身にまとって畳や看板の準備。

それがまあ、竹口さんのつるっとしたおかしらに、和服の似合うこと似合うこと。たたずまいが完璧すぎました。小国入りする前から寺ネタを予想されていたのではと思うほど、かわいい巾着とかシックな手ぬぐいとか、私物の使えるアイテムがぼんぼん飛び出してきます。絵的に、既に大成功でした。

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f:id:kurumi-zenzo2014:20140812054925j:plain看板は師匠の手書き

 

いざ、企画書の持ち込み。

アイディアを書き終えたら、外へ飛び出し、庭を一周して師匠のもとに駆け込みます。

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「師匠、お願いします!」

師匠の前にずいっと企画書を差し出しました。

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実は、最初に提出したプランは、あらかじめ山下さんと問答を重ね、なんとなくかたちになりかけていたものでした。まずはスムーズにやりとりできそうな企画でこの「駆け込ん寺」を軌道にのせたいという思いの他に、竹口さんがどれほどのもんかここで探っておこうという意識もありました。お手並み拝見、ではありませんが、期待値は低かったなあ…。竹口さんだからというわけではなく、がっかりしたくないから。

なのに、竹口さんが、うそでしょってぐらい親身になってくださるのです。

やさしい! やさしいんです!! そしてやさしいだけではない! 企画を、本当に真剣に考えてくださる!!

わたしが口走った何かを見逃さず、企画の肝となる重要なキーワードが何か一瞬で見極め、考えを深めるための扉はここだよって連れてきてくれるんです。扉を開ける鍵は、自分でゲットすることも、竹口さんが渡してくれることもあった。でも鍵穴につっこんでまわす最後のカチャッはわたしに委ねてくれるので、自分でできた! 自分にもできた! という錯覚がもたらされるのですね。わたしはまるで発想名人になったような気がしました。

竹口さんすげえ、すげえ人であらせられた!! とわかってからは、竹口さんを一分一秒でも多く味わわねばと思って、本気のだめ企画をぶつけまくりました。庭を駆け込む時間すら惜しかった。美術館の庭の通路は、アップダウンありカーブあり砂利道ありで、何かと障害の多い人生そのもののようです。師匠までなかなかたどり着かないー! と思って泣き出したくなりました。庭を走っている時間は現実にはたった30秒ほどなのですが…。

竹口さんは、わたしが自分でもどうしようもないと思っている瀕死の企画にも蘇生の道を探してくれて、それがわたしのように暗中模索じゃなくて、平明でかつスマートなんです。前日の台風が暴れたあとの白い布の塊みたいに、あらゆる方向から何本もぐわんぐわんにのたくってもつれているわたしの思考のしっぽを見つけて、するする紐解いてくれるっていうか…。

f:id:kurumi-zenzo2014:20140811185618j:plain f:id:kurumi-zenzo2014:20140811212319j:plain←こいつがわたしの脳みそ。

こんなにこんがらがった発想を次々整理されていくご様子は、タネも仕掛けもないマジックのようでした。

ひとつの企画に、OKが出るまで取り組み続けなければならないというルールにしたのもよかったと思います。どんなに終わっているアイディアでも、ここをなんとかしないとどこにも行けないから、わたしも竹口さんも必死になれたのかもしれません。今考えれば、そもそもそのルールを通したのがすごいです。アイディアを生かす道は今日中には見つけられないかもしれないのに、わたしが見つけるほうに賭けてくれていて、不出来な人間に対する深い思いやりを感じました。そして今日中に見つけられなかったアイディアは、多分一生見つからなかったはずです。竹口さんにはたくさんの命を救っていただきました。

 

作家と学芸員さんとの対談企画だと、「話が合う」かどうかで成功するか否かが決まりそうですが、「素晴らしい企画を生み出す」という使命のもと、互いの搭載している武器や燃料をじゃんじゃんくべていく共同作業になりました。エキサイトに次ぐエキサイトでした。

その熱量は、お客さんにもきっと届いていたと、そう思いたいです。…ってことは多分100%届けられはしなかった……という実感があるということなのですが…。

もともと、「駆け込んでら、」って、我々を遠巻きに呆れて見やるお客さんのつぶやきを想像してつけたタイトルだったから、ヒートアップしているこちらとの温度差はある程度織り込み済みではあったけど…。

お客さん第一の、お客さん至上主義企画ではなかった。

が、この企画、やってよかった。

見に来てくださった方によろこんでもらうのが最優先のはずでしたが、ちょっと今回それは置いておいて、自分のために本当に本当によかったです。

竹口さんがいらっしゃる前に、山下さんと竹口さんの違いはなんだろうとかわたしは一生懸命考えていて、頭髪の有無とか、ヒゲの有無とか。竹口さんの坊主頭を使わせていただいてわたしの後頭部とコラボできないかとか、まじめに考えていたのですが、そういう外見上の記号を使った無粋なことしなくて本当よかった!

性差なんかはとびこえて、竹口さんの内側のふさふさと関わり合えたことが、わたしは心からうれしかったです。

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時間全然足りなかった。

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-------本日はゲスト赤ペン-----------------------------------------------------------------

てことでゲスト赤ペンの竹口です。ども。

 

いつもくるみちゃんと山下さんとのやりとり(かけあい?)を見ていて「さてぼくはどんな赤ペンができるのだろうか」と思っていたところ、くるみちゃんから思いがけず熱いラブコールと言うか高いハードルを目の前にガシガシとつくってもらったので、それに応えるためにも竹口の側から見た「駆け込ん寺」の一部始終をお伝えすることにします。

 

草木も眠る丑三つ時、川のせせらぎを聞きながら布団の上に坐し、「困ったことになったああ」とぼくはため息をついていました。

 

つい先ほどまでくるみちゃんと山下さんと善三美術館スタッフのNさんと企画会議を行い、「よし明日の企画は駆け込ん寺に決定!」と散会したところ。ここはくるみちゃんが滞在している民宿の1階で、ぼくはそのまま隣の部屋にお泊り。くるみちゃんとNさんは2階に、山下さんはすぐ近くの自宅に戻り、それぞれの明日を迎えるために布団に入ることになったわけです。

 

なったわけですが眠れず、残ったスパークリングワインを舐め舐め持ってきた本を開き、文字を目で追いながらも頭では別のことを考えることさらに1時間、うつらうつらと眠りにつきました。

 

いったい何が困ったことになったのか。

 

小さな「困った」としては、その持ってきた本を読んだり(自館の)仕事をこなしたりはどうも明日はできそうにないこと。

 

そもそもさっきまでの企画会議にしても、もちろん話し合いはあるだろうしないと困るとは思っていたが、よもや白紙状態で午前2時までがっつり、とはまったく想定していなかったし、明日10日の本番も、たしかに数日前にくるみちゃんと電話で話した時も「後頭部を使ってなにかコラボを」「関西弁を活かして漫才を」とは冗談めかして話題になったが、実際のところはせいぜいくるみちゃんのパフォーマンスをすこし離れたところで見守りながら、本を読んだりフェイスブックで「善三美術館なう」とかつぶやいとけば陽もくれるだろう、そんなふうに高をくくっていた。

 

いやもちろん、くるみちゃんとがっつり絡むのを拒むのではない。それはそれでうれしい。なんせぼくは去年、善三美術館での制作道場のブログを見て、気になって気になって「これは見ておかないといけない」とかり立てられ、車の免許を持たないから高速バスとタクシーを飛ばし大雨の中(そういえば今回も台風すれすれの雨模様ではある)滞在時間2時間弱というふしぎスケジュールで最終日にようやく駆けつけ、案の定くるみちゃんのとりこになったのだから。その様子を見て山下さんがぼくにゲスト赤ペンの白羽の矢を立ててくれたのだ。大袈裟ではなく光栄の至りである。

 

しかしである。「駆け込ん寺」である。どんな内容だったのかはくるみちゃんが書いている通り。くるみちゃんがその場で制作道場の企画案を次々に書き、ぼく扮する「師匠」に伺いを立てる。合格なら次の企画へ、不合格なら合格になるまで案を修正しつづける。要はそれだけでなのだ。ぼくにとっては幸いなことに安定の坊主キャラを活かすうってつけの舞台設定であるにしても、企画案を書きあげたくるみちゃんが一旦部屋の外へ出て美術館の前庭を走りこみながら師匠が待つ部屋の障子をガラリと開けるという設定が組まれたとしても、それが来場者にとって「おもしろい」パフォーマンスになるとはとうてい思えない。

 

企画会議を通していろいろ話をしている時に、くるみちゃんがきっぱりと言ったことがある。「すべての人をよろこばせたいし、誰一人としてただ通りすぎてしまうような人を出したくない。全員の気持ちを手繰り寄せたいんです。そもそも私は自分のために表現をやっているとは感じていない」と、そんなようなことだったと思う。その言葉に共感できるところもありながら、ぼくにとっては意外なところもあったので、よく記憶している(つもりだけど、なんせ呑みながらガヤガヤ話していただけなので、聞き違いや意訳はなはだしければごめんなさいね、くるみちゃん)。

 

もちろん、作家がなにかを口にしたからといってそこに全く嘘がないとか、そこに全ての筋が通っているとか、言ったからには責任取れよとか、そんなことを言うつもりはない。人は揺れるものだし、その場の雰囲気もある。そもそもあれが嘘でこれが本当だと線引きするのもナンセンスだ(とは社会生活においては軽々に主張できないけれど)。あれもこれも本当にするとか、あれもこれも嘘にしてしまうとか、そんなリアリティが人にはあるし、芸術にはある。とはいえくるみちゃんのあの言葉は、どこか核心めいた強さを持っていた。

 

「それなのに、駆け込ん寺?」という違和感がぼくのなかでぬぐい難くあった。場に居合わせる来場者が本来であれば裏方でやるべき当事者同士のやりとりになにを見て、なにをよろこぶのか。来場者は戸惑いいたたまれず、やっぱり通り過ぎちゃうんじゃないの?と、話しても話してもイメージが湧かなかった。そのくるみちゃんへの違和感に輪をかけてなじめなかったのが、山下さんはじめ善三美術館スタッフのみんなのノリノリぶり。

 

山下さんのくるみちゃんへの赤ペンには「それでパフォーマンス/作品として成立するの?」という厳しいツッコミをよく見ていたように思う。ほとんど来場者ほったらかしのこの企画をみんなでやりたいという真意はどこにあるのかと、そういえば日田駅まで車で迎えに来てくれた山下さんは「こんなアウェイな場によくぞ来てくださって」と笑いながら言っていたその意味がこれなのかといぶかしくさえ思った。

 

とまあ、ちょっと筆が走ってきているけど気にしない。このまま続けましょう。

 

ともあれそんなこんなで押し切られるような形で「駆け込ん寺」に乗っかることとなったのだが、じつはぼくにとっての決め手は午前2時も近くなったときの山下さんの一言だった。「くるみちゃんのなかではこれをどうしてもやりたいと心が決まっているようだから」。くるみちゃんは席を立って台所にいて、このセリフもぼくに聞かせるものではなく善三美術館スタッフのNさんに向かってぼそっと呟いたのだ。

 

愛があるなあ、と思った。結局はここなのだ。ギリギリまで議論は重ね、時にはきついダメだしや門前払いもあるけれど、それらは全て作家の「それでもやりたい」という心を固めていくためのプロセスなのであり、若木くるみという人間はそうすることで成長していくと山下さんたちは心から信じているのだ。一蓮托生。もう腹を括って乗っかるしかないよなあ、と思った。

 

本当のことを言うと、「駆け込ん寺」を拒んでいた理由は根のところでもうひとつあった。それはくるみちゃんが「これどうですか?師匠!」と持ってきてくれる企画案に「これはいいね」「これはここがよくない」とぼくが即座に対応できるのか、という不安だった。なにか出来事があって即座に反応する、なにか作品を見て即座に批評する。その打てば響くようなリアクションが、学芸員としては恥ずかしいことにぼくにはとても難しい(一応できないとは言わない笑)。それではと時間を置いて、自分なりに考えて言葉にすると、対象によらずいつも同じ語りになる。それはそれでいいのだと思う半面、それではまずいと憂うぼくがいる。だから研鑽を積まなきゃいけない、近頃そう思うようになった。そう思うようになった矢先に、その自分の無能さを表舞台でさらさなきゃいけないのだ。

 

すこし大袈裟に聞こえるかもしれない。うん、たしかにすこし大袈裟になってしまった。しかしそんなに大袈裟でもないことは、3時に眠ってからの3時間の間にくるみちゃんが出てきてぼくと何かやっている夢を見たと告白すれば分かってもらえるだろう。朝になって自分でも驚いたが、いやはや、肝っ玉の小さいことこの上ない「師匠」である。

 

かくして「駆け込ん寺」は始まった訳ですが、始まってみるとこれがすこぶる楽しい。くるみちゃんのブログを読んだ方はあたかもぼくがイニシアティブを取っていたように感じられたかもしれませんが、いやいや、ぼくなど所詮はまな板の上の鯉、座布団の上の偽坊主にすぎません。山下さん言うところのくるみちゃんの「瞬発力」、現場を前にして(と言うか最中にようやく)発揮される一見ハチャメチャだけど意外に冷静なところもあるその瞬発力は、場をみるみるチャーミングなものに変えていきます。

 

なによりくるみちゃんが持ってくる企画案のそのことごとくが面白そうな匂いを放っていました。「一寸先は闇、二寸先は光」「一石三魚」など、どれもこれもバカバカしくも大真面目。彼女が過ごす日々の態度と間違いなく結びついているそれらの案は、だからそれのどこがおもしろいのか、なにが魅力なのかが、まだまだ未熟だったり実現には遠かったりしても無理なく伝わってくるのです。まるでその企画案を透かして若木くるみという人の素っ裸はエロ坊主過ぎるとしたら腸(はらわた)を見るようなものと言いましょうか。

 

そしてなによりくるみちゃんは人との対話を好み、それを自分のなかに取り込もうとします。「自分にはプライドというものが一切ない」という言葉の(これは)その通りに、まるで自分が空っぽの容器であるかのように、あるいは乾いたスポンジであるかのように振る舞うことで、相対する人のおもしろさや魅力を自分のなかにあれよあれよと吸収するのです(だからこそ「自問他答」などといテーマ設定もありえたのかもしれません)。それを貪欲と呼ぶこともあるでしょうし、たしかにくるみちゃんにはそういう面もありますが、ぼくにとってありがたかったのはそういう彼女であったからこそ対話が始まったということです。しかもとても稀有な対話の在り方です。

 

話す人がいて聞く人がいてテーブル(場)がある。それだけあれば対話は成立しますが、しかしそれがないと対話は始まりません。くるみちゃんは一見饒舌な話し手に見えるかもしれませんが、その一方でとても透明な聞き手であり、もっと言えば(やっぱり)貪欲な聞き手なのです。相手が主体的に発話しなくとも、するすると言葉を導き、ぐんぐん吸い取っていくようなかんじ。そしてそれが相手に決して嫌な気分を残さず、その対話の場になにかとても心地よい充実感がもたらされるのは、彼女自身が「プライドがない」と言い切る腹の括り方と純粋さにあるのではないでしょうか。

 

たとえば「自己決定」という権利が守られるのではなく義務として押し付けられる現代社会に嫌気がさし、いっそのこと「自分」なんてものはどこにもないと言い切ってしまった方がもっとリアルで豊かな地平が見えてくるはず。ぼくはそんなふうに考え、口にすることもしばしばあります。しかし、どうもぼくはまだまだのようです。まるでそのことを体現するような人に、一年越しにしていよいよ間近に触れられた幸せは忘れがたいものとなりました。

 

「自分のために表現しているとは感じていない」。その言葉に対する違和感をぼくのなかで完全に払しょくするにはもう少し時間がかかりそうですが、810日を境に量なのか質なのかが大きく変わったような気さえしています。

 

それとあともうひとつ。山下さんはじめ坂本善三美術館の懐の深さに包まれ、楽しむことに妥協しないその心意気を知ることができたことも幸せでした。参加者の誰よりも自分たちが楽しむこと、そこにさえ妥協しなければ(たとえ伝えたいことが伝わらなくても)伝わってしまうことはちゃんとあると信じること。当日「最高におもしろい!」と何度も何度もとくにぼくに言うでもなく口から出されていたその言葉がとてもうれしく、あの1日を支えてくれていたと思います。

 

それがパフォーマンスとして優れていたかどうかは、まだぼくにはよく分かりません。けれど2014810日、坂本善三美術館で繰り広げられた「駆け込ん寺」は最高に生々しくおもしろい「若木くるみの制作道場」だったんだと、これを書きながらじんわりと実感しています。

 

てか、長すぎるやろ。と我ながらビックリ。

 

福岡県立美術館 学芸員 竹口浩司