一寸先は闇、二寸先は光 8月28日

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一寸先は闇、二寸先は光。

 

このフレーズを思いついたのはいつ頃だったか。

半年くらい前だった気も、そんなには経っていないもっと最近のことだった気もします。

制作道場パート2の開催が決まったのはいいものの、アイディアなんかどこにもなくて、暗くて重いことばかり考えていました。

 

予定表の7、8月のページをひらいて、「一寸先は闇、かあ…」。

何気なくつぶやいた後で、「じゃあ、……二寸先は、光……」。ぽつんと付け足してみたのでした。

 

二寸先は光!!

 

自分の口から明るい希望の言葉がこぼれたことに驚いて、光! 光!! そのまばゆさに打たれて気持ちもパッと輝きました。

 

闇の次は光だから、大丈夫だから。

 

そう言い聞かせて自らを鼓舞し、憂鬱から這い出せそうな時に、しかし待っていたのは、

「自分が一寸進んだら光もまた二寸先へ行っているので、永遠に光には到達できない。」

という絶望的な結論でした。

 

むごたらしい解釈に目の前が真っ暗になりました。これぞまさに一寸先は闇…。

 

いや、しかし、一寸先が闇だということは、自分の今置かれている現状は闇ではないということだ。

自分の進度と合わせて二寸先へ逃げ続ける光と同じく、闇だって一寸先へと逃げてくれるわけだから、わたしは一寸先に待ち構えている闇を、恐れる必要がそもそも無いのか。

いやいや、目の前に待ち受ける闇の存在に気づいてしまっている心の状態は、もう十分に闇なのではないか。

 

救いのない自問自答を重ねていた「一寸先は闇、二寸先は光」問題ですが、山下さんやゲスト赤ペンの竹口さん(8月10日参照)にご相談したことでようやく光明が差し込みました。

「一寸先、二寸先って、自分の前方だけにじゃなくて、横にも、後ろにも、ぐるっと全方位にあるんじゃないの?」

闇も光も一気に広がった革命的な発想でした。

 

そのようにして出来た、8月10日の最終的な企画書がこちらです。

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部屋の中に、黒い円柱の部屋をつくる。その空間が闇。闇の内部の床も黒くする。外界と遮断された闇の中央で、わたしはひたすらルームランナーを漕ぐ(前進しているのに闇にも光にもどこにも行けない表現)。床には黒いシートを敷いておき、自分の周りだけ円く切り抜く。自分がいるのは、闇の中にありながら完全な闇ではない、曖昧な場所。

 

の、はずでしたが、闇の空間を作ろうと円にすると、狭い面積しかとれないので、妥協したというか致し方なくというか、円い部屋ではなく四角い部屋にしてご免被ることにしました。

 お客さんには走るわたしの姿が透けて見えるよう、黒いメッシュ生地で四方を囲います。

お客さんから見えるということはつまりわたしからも外の世界が見えるということで、もうその時点で全然闇ではないのですが、いいんです、概念です。

 

壁を仕切ったら次は床の闇。

当然闇部屋の内部におさめるはずだった床の黒いシートは、「四畳半マンガ(8月26日)」を隠そうとするとどうしても闇の外側にもはみ出ることになって…。

 

いつもは作品が企画書通りに運ばなくてもドキドキ胸を高鳴らせて楽しめるのに、今回は軌道修正を余儀なくされるたび、心の中で、大目に見てください! と手を合わせてしまいました。

わたしは誰に懇願しているんだろう。どうして今日はこんなに自信がないんだろう。

原因はゲスト赤ペンの竹口さんで、わたしは竹口さんと練ったアイディアを、竹口さんに断りなく変更するのがどうにもやるせないのでした。

 

素晴らしいインスタレーションにしたいのに、及第点にも達していない…。

 

空間の見え方が本当によくない。

まず床に敷いた黒いビニールがよくない。

ゴミ袋的な素材が極めて貧乏臭い上に、反射でテラテラ光るせいで中央の闇じゃない部分が全然見えてこない。

ビニールの上から黒い布を重ねてみると、質感がマットになって格段に見やすくなったのですが、美術館にたくさんあるはずの暗幕がどうしても見つからないらしく、3分の1程度しか床が埋まりません。

残る3分の2のビニールの光沢が、ビラビラと視界を刺激します。

うまくいっていないインスタレーションを前に、ぼーっと暗幕の発掘を待っているのは拷問すぎる…。

ビニールの面積を少しでも減らしたい一心で、着てきた黒いカーディガンや黒いタイツを置いてみました。その程度で埋まるわけはないのに。焼け石に水状態になるのはわかりきったことなのに。

それでもとにかくいても立ってもいられませんでした。

一緒にすんなって感じかもしれませんが、災害ボランティアのような気持ちでした。

 

そしたらなんと、並べた洋服がいい感じに思えてきて、……あれ? これなんじゃない……? 

「闇」が黒い衣類で出来ているって、なんか、なんかなんじゃない…?

スタッフの方にお願いして、下着から冬物のコートから、各家庭にあるありったけの黒物を集めてきて床に敷き詰めました。

ビニールのテカリを隠せただけでなく、黒の濃淡に表情が出ました。しかも服なのでこわい。闇らしくこわい。

結局自分にとっての闇って対人関係にまつわる何かだもんなと思った。怒りを買うこととか、傷つけることとか、闇です。

 

何より、闇を服で表現とかいう現代美術くさいことが、自分のコンセプトとして積極的に発信されたのでなく、必要に迫られてのハプニングだったことがとてもよかった。

もしわたしの頭からそんなことが出てきたのなら、とても許せなかったと思います。黙って有酸素運動しとけって感じです。

けれども、コンセプチュアルなんとかっぽくはなってしまいましたが、わたしはこの作品にやっと感情移入ができるようになりました。見え方もぐっとよくなった。

よくない作品がよくなるのって本当にいいよなあ! 少ない語彙に全感情を込めて思いました。

 

それから、この変更に関しては、竹口さんの顔色を伺う余裕がなかったことに気がついて、ハッとしました。

作品が自立するのってこういう瞬間なのかもしれないと思いました。

わかんない。でも、竹口さんに、見てもらっていないのでやっぱりわからないです。

 

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黒い服から白い服に着替えてもみましたが、やはり黒を着用することに決めて、いざ、闇の世界に没入。

ひたすらルームランナーを漕ぎました。

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ブォン、ゴォン。

足裏でルームランナーのベルトを蹴り下がるごとに、鈍い反響が返ってきます。

歩いても走っても、光には決してたどり着けない。幕の外側には、光が広がっているのに、確かに見えるのに、行けない。自分が望んだ通りの景色です。

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いい、いい、救いなどなくていい、光があるってわかっているだけでいい。

闇の向こうの手の届かない光を、わたしは網膜にしっかり焼き付けました。

 

そうしているうちに、頭に浮かんだのは、「闇と光の表現にものすごく苦労してこんな作品になったけど、もしかして、目をつむれば、一番ミニマムに『一寸先は闇、二寸先は光』表現ができたのでは」という恐ろしい考えでした。

 

まぶたの壁が黒い覆いで、まぶたの外はもう光で、まぶたの内側は闇の中ではあるのですがなんか潤いもあってそれなりにカラフルなんです。それで、でも闇の外にはもっと鮮やかで強烈な本物の光が溢れていることもちゃんとわかっているのですが、目を開けてしまうと闇が消えて全部が光になっちゃうから、そしたらまぶたの外側にまた新しい闇を探さなくちゃいけなくなっちゃうから、それってこわいことじゃないですか。だから、こわくて、いつまでも目を開けられない。

 

って、だめか。

こんなプレゼンしかできない時点でアウトだ。ていうか仮にこの企画が通ったとしても、それはもう「家でやれ」でした。

 

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----------本日の学芸員赤ペン-----------------------------------------

 

「一寸先は闇、二寸先は光」のプランは、今年の道場がはじまる前から聞いていましたが、詳細はゲスト赤ペンの竹口さんとの間に行き交った企画書で練り上げられているので、本来はこの作品の赤ペンも竹口さんに書いてもらったほうがいいのだと思いますが、当日その場にいた者が書くという制作道場ルールで、山下が失礼いたします。相談したら相談しただけ、見たら見ただけ、書いたら書いただけの解釈や意見が存在しますので、どうぞ多めに見てくださいね。

 

一寸先は闇、二寸先は光。なのだろうか。

一寸先は闇、二寸先は光。なのかもしれない。

 

黒いメッシュで仕切られた薄暗い部屋。その中で足もとにぼんやりした明かりを点滅させながら歩き続ける人物。歩いても歩いても進まない、どこにもたどり着かない模索の歩行。

 

企画書では円柱の部屋であったこの闇は、直接的な原因としてはスペースの問題や技術的な問題で、円ではなく四角になりました。外的要因によって当初プランを変更せざるを得なかったかもしれませんが、私は四角であることによって、歩きだそうとしている方向性が表現されたのではないかと思っています。確かに一寸先の闇は前方だけでなく全方位を取り囲んでいるでしょう。しかし、私たちは全方位を取り囲まれた中から、これから踏み出す一歩をどこかの方位に決めて歩き出さなければならない。前後左右ぐるっと囲まれた闇を引き連れながら、この方向に進むんだと決めて一歩歩き出した力強さが、四角い闇に囲まれたこの作品にはあったと思います。

円の闇については実行していないので、私の頭の中での勝手な想像に過ぎませんが、円の闇は、全方位を闇に取り囲まれ、これからどの方向に歩きだそうかためらっている、最初の一歩を出す直前の瞬間を表しているように思います。どの方向にも進める。どんな可能性も選ぶことができる。そんな、可能性という闇に360度取り囲まれたときの緊張感が円の闇にはあります。ただ、一歩踏み出すには、その中からどれか一つの方向を選ばなくてはならない。円の張り詰めた緊張から一歩踏み出したとき、円はブレイクされ、その歩みと共に、円から方向性を持った方形へと変わっていくのではないでしょうか。

また、四角であることによって方向だけでなく時間も表現されていたように思います。闇を引き連れ、二寸先の光を信じて歩み続けている、止まることのなく流れ続ける時間。顔を上げ、前を見据えて、進まない歩みを止めないという意思を感じました。

 

そして、闇の中で歩き続けるくるみちゃんを見たとき、ハッと気がつきました。私たちは今、光の場所から闇の中を他人事のように覗き見ているわけではなく、私たちもすぐとなりで、くるみちゃんと同じように今から闇へと一歩踏み出そうとしている場所にいるのだと。

そう思うと、一歩踏み出すごとに歩みを光らせながら歩き続ける姿そのものが希望なのではないかと思いました。二寸先に光があることが救いなのではなく、むしろそれを信じて歩み続けている人が他にもいると知ることが救いなのではないだろうか。

 

今回空間を造形するにあたり、当初のプランから計画が変更になったとはいえ、作品のイメージをその場の具体的な状況や制約に合わせて粘り強く修正を重ねていくくるみちゃんの姿は、さすが作家でした。少しでもよくなるように。少しでもよくなるように。

それはちょうど、一寸先の闇に飲み込まれないように、二寸先の光を信じて歩みを進め続けるこの作品と重なるものでした。

・・・と、まとめるのはちょっとやりすぎというか、強引というか、ありがちというか、新聞の社説みたいな出来レースのまとめになっちゃいますが、「一寸先の闇に飲み込まれないように、二寸先の光を信じて歩み続ける」というのは、なにも観念的なことではなく、人生の特別な場面に限られたことでもないのです。ありふれた日常の中で、いつでもどこにでも抽象的にも具体的にも、私たちが生きるという姿そのものなのだなと、改めて思いました。

薄暗がりの中で顔をあげて歩み続けるくるみちゃんの姿がまぶたに残り続けています。

坂本善三美術館 学芸員 山下弘子