少量流し 8月15日
今日は終戦記念日です。
昨日、美術館にお越しくださったお客さまのアイディア、「精霊(しょうろう)流し」(故人の家族らが、精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運ぶ仏教行事)。
ボウリング企画で使用した人型のピンに目をつけ、彼らを流してみてはどうかと提案してくださいました。
彼女は、「去年も制作道場のことはなんとなく知っていたのだが若い作家がなんかやってると思ってナメていた」とざっくばらんに話してくださり、なのに今年は来てくれてしかも熱心に見ていただけたことをわたしは心からうれしく思いました。
翌日の企画は例によって決まっておらず、明日は精霊流しで絶対一ネタ当ててやるとその場で決意を固めました。
いくつもいくつも精霊流しに基づくアイディアを山下さんに出しては、「精霊流しに何の思い入れもないのにわざわざやる必要ある?」と、いくつもいくつも流されたけど、わたしは珍しく食い下がりました。身内や友人にも相談して、ああでもないこうでもないという議論を重ね、閉館間際、ついにプランが通りました。
少量流し。
庭に温泉のセットをこしらえて入浴し、お客さんに背中を流してもらいます。
スポイトを使って、少量だけ。
温泉の町、小国には、杖立温泉や黒川温泉をはじめとして豊かな温泉が多数存在します。地元の方々が当たり前に温泉に集い仲睦まじく語り合う姿はのどかで、我知らず微笑んでしまうのですが、一方で自分はやはりよそものだという鋭い寂しさもあり、同時にまた、自由であることの活力が四肢にみなぎるような感覚も味わえます。
美術館が終わってから、温泉水を汲みに山下さん行きつけのホタルの湯へご一緒させていただきました。
「あれ。今日はたまちゃんはおらんとね?」
山下さんの愛娘たまちゃんはただいまお父さんと里帰り中(?)。山下さんと一緒にいるわたしを、誰もたまちゃんと間違えてはくれなくてがっかりでした。
温泉までの往復の車中、山下さんとたくさん話をしました。
今日、お客さんから「今年は来た」って聞けて、なんかふっきれたね、とか。
今年は日記にコメント欄をつくらなかったことを今になってわたしは悔やみ始めていて、反応がないのがこわい。誰かに届いているのか考えると不安で仕方ない。そう暴露すると、山下さんも全く同じことを今朝考えたとおっしゃっていて、あんなに、コメント欄の有無についてはよくよく話し合って進めた件なのに、おかしいくらい揺らいでしまっているのでした。
山下さん、家族旅行から戻ってこられて笑ってくれることが多くなりましたが、やさしくしようと心がけて、笑っているのですか? そう尋ねると、そんなことないよ、とのお返事。
そんなに前と違うかな?
はい。本当にこわかったです。
うーん…、やっぱり、2年目、すごく構えていたんだと思うんだよね。緊張していたんだよね。
はい。よくわかります。
失敗できないってすごく思ってね。
ですね。……わたしは、山下さんの笑顔がもっと見たいって思っていたので、うれしいです。(ぽろぽろ)
くるみちゃんのやりたいことをやればいいよって何度も言われるけど、わたしは山下さんによろこんでほしいから小国に来ていて、自発的にやりたいことなんてわからない。ない。山下さんの反応が良くない事案を敢えて進めようという気になれない。それをその程度のものだと言われるならその通りだし、山下さんに向けてじゃなく皆に向けて表現すればいいってだって、皆の顔、見えないじゃん。今目の前にいる人に、山下さんに気に入られる作品を作りたいと思うのは、いけないことですか? 自分のための表現って、どういうことですか?
でも、昨日夕方、もう時間もないのにどうしても精霊流しやりたいって粘った時に、山下さんのおっしゃっていたことが少し飲み込めた気がしました。なんか、ジャッジされる立場だからって、臆することないんだなと思った。こちらから戦いを挑むつもりで、けんかふっかければいいんだなって…だめかな。
ワークショップで中学生の皆さんを前にする時、わたしは「かかってこいや」と思ってやっているのですが、もしかして山下さんもそうなのですか、と。どうせやるならタイマン張らないでどうするの? ってことなのかな、と。
それと、わたしが精霊流しにこだわったのにはもう一つ理由がありました。お客さんがネタ元だということ、時期的にタイムリーだということの他に、この日は制作道場のちょうど折り返し地点にも当たります。いわば、前半戦の最終日、後半戦の初日です。
完成度の見込めるストック企画よりも、未熟でも、この現場だからこそ生まれた、一番鮮度の高い卵を割りたかった。生がいい、生じゃないと、と思いました。それが、八方美人なわたしの、せめてもの誠実さのような気がしたからです。
そして決行した「少量流し」。
「精霊流し」を暗示させる要素があったほうがいいのではと、せっかくなので背中には死んだ母親を描きました。なんか…四季を彩る販促グッズのような装飾的な母の扱い…。
山下さんに、「お母さん、死んでからすごく愛されてるよね。」と指摘されて、その通りでした。死のエッセンスが欲しい時に死者代表としていつでも呼び出せるのでとても重宝しています。今年二度目の命日をわたしも姉も忘れていたことはどうか水に流してもらえますように…。
お客さんには当初、背中の汗を流してもらうつもりでしたが、汗をかけるほど暑くないのが小国です。
「背中を流す」=「背中を洗う」だよね、というわけで、温泉水をかけて母親の顔をスポンジで少量消していただきました。
「お母さん、成仏してくださーい。」
ふざけてそう言っていたら、「お母さんは成仏してないわけではないんじゃないの…?」とまた山下チェックが入って、え! そうだったの? と思いました。
雨に打たれてすごく寒いです。お尻も砂利に刺されて痛いです。でも肌の露出をタオルで隠したりしているので不用意に体勢を変えたくないし、もうこうなると意地でした。絶対ここから出ないぞ。
厳しい環境に放置されて強くなる。
お客さんからこの温泉の効能を聞かれて、「ストレス」ではなく、「ストレス耐性」と答えました。ここでストレスに順応しておくとあとの暮らしがとても楽になります。「りょうえんとか、ありませんか?」と聞かれて、漢字が浮かばずに「えっ?」と聞き返すと、「良縁」のことでした。良縁という響きもピンとこないのにそんな効用期待できるわけもなく、でも一緒に入浴しているピンの裏側にはかわいい女の子の顔が描かれているので(昨日の日記参照)、とりあえずの慰めにはなりました。
明日のプランが未決なので、山下さんも温泉に入って企画会議。砂利に足先をうずめてつつきあって遊んだりして、いちゃいちゃいちゃ。良縁ならここに! ありまーす!
ちなみに山下さんは「岩」に擬態しているそうで、「岩風呂。」と言い切っていました。
本当の温泉に入っているように話はいつまでも尽きず、なんとか明日の企画も決まりました。
今日は今年一番のへんてこ企画になったけど、こういうの欲しかった〜! とわたしは思いました。なんかもう、解釈の余地がどれだけあるのかとか、意味は何かとか、2度3度ひねったのかとか、練りに練った叩き上げのアイディアばっかりで息苦しかった。下克上上等。
自分は今一体何をしているんだろう? 妙ちきりんな段ボール温泉の中で、これは美術なのか、考えるだけで笑いがこみ上げてきます。さすがに美術じゃあないだろう、でも他に何かと言われたら何とも答えられない。じゃあやっぱり、美術なのかなあ…。
「ゆ」って書いてあるへなちょこ暖簾を見て、本当にお風呂があると勘違して来た方、言われた通りに背中を少量流しながら「このあたりお盆はこういう風習が一般的なんですか?」とまじめに聞かれた東京の若い方。
現実と非現実が交錯していて、わたしは誰かの夢の中に浸かっているようでした。
最後は、わたしが一足お先にあがって、一緒に入浴した段ボールピンの背中に、温泉水を少量流して弔いました。
↑少量流しているところ。
冒頭の一文を思い出してください。
「ボウリング企画で使用した人型のピンに目をつけ、彼らを流してみてはどうかと提案してくださいました。」
流しましたよ! お客さん企画、完璧にものにしました。
ありがとうございました。
寒い寒いと騒いだので山下さんが「温泉連れてくよ」と誘ってくださいましたが、今日はもう5時間も入ったから…と固辞しました。
変な一日でした。
---本日の学芸員赤ペン---------
「一介の学芸員が若い気鋭のアーティストの斬新な企画に鬼の形相でダメだししまくって泣かせている」という態でお送りしている「若木くるみの制作道場」も、もう半分が過ぎてしまいました。「という態で」というところを皆さまにもぜひとも共通理解項目としていただきたい。
今朝、くるみちゃんが「なんだか作品に意味を持たせようとしすぎている気がする」と言ったとき、私はハッとしました。意味とか意図とかメッセージとか、そんな言葉にできるスローガンなんて作品には必要ないし、自分でも普段は「そんなこと考えないで鑑賞しましょう」って解説しているのに、制作道場の企画打ち合わせでは「で?」というその先を求めていました。今年は特に。確かにくるみちゃんは、アイディアの糸口のそのまた切れ端みたいなところから俎上に上げてくるので、「で、どうすんの?」というのが私の口癖のようになっています。アイディアを現実にこの世のものとするにはまだ相当な段階があるので、それを一段一段積み上げていくのは打ち合わせとしては当然としても、そこに「○○を意味している」的なわかりやすいストーリーを作り上げようとしてはいなかったか。赤ペンに書くことまで想定したような、見る人の立ち位置まで決めてしまっていなかったか。何のためにその作品を作るかではなく、作家が実現したいと切望する作品がこの世に現われて、それを目の当たりにしたときに何を感じたかが大事なのだ。「何を感じたか」の触れ幅の大きさがその作品の力量なのだ。それを最初から限定してはいけない。
そんなことが頭の隅にあったからなのかどうかわかりませんが、今日の作品を「少量流し」で行こうと決めたのは、「温泉に浸かった人の背中をスポイトで少量流す」というアイディアを聴いたときに思わず吹き出してしまったからです。精霊流しからの少量流し。実に馬鹿馬鹿しい脱力作品。
写真のとおり、ゆるすぎる温泉のしつらえ。なんだろうと思って近づくと、背中をスポイトで流せと言う。
スポイトで?背中を?
想定外の仕掛けで頭の鍵がカチッとはずれる。でもこの作品はそれ以上でもそれ以下でもない。
「これって美術なのかな」と、作家本人も思わずつぶやいていましたが、「美術とは何か」という問いを作品自らが内部に持つのは現代美術の特徴の一つでもあります。きっとみなさんも思ったはずです。「これって美術なのかな」。この作品はこの作品以外の何ものでもないという点で、確かに美術です。むしろ、美術館、つまりアートの領域の中でこれをやるということで、アートのエッジを際立たせるものとなりました。
それにしても、本作の力の抜けた力技はすごかったと思います。前日にお客さんが発言した一言を、何が何でも形にし、それが結果として見る人の頭の鍵をはずすものになる。自分の中だけから生まれたものではなく、みんなと一緒にその場の空気を共有しながら作り上げたいという、くるみちゃんが制作道場にかける姿勢が生み出したこの作品は、一見トンデモ作品でありながら、今年の制作道場の流れを一転させる力を持っていました。
坂本善三美術館 学芸員 山下弘子